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百人一首について

百人一首について

「百人一首」と呼ばれるものは、一般に「小倉百人一首」として知られていますが、これは今から約730年もの昔、鎌倉時代の歌人である藤原定家がまとめたもので、百人一首の歴史はかなり古いものです。

  天智天皇から順徳天皇までの約550年の間に、貴族や歌人たちの間で詠まれた和歌から、各人の優れた和歌や代表的な和歌一首を取り上げ、年代を追って、全部で百人の和歌を取り上げたものです。

 「小倉百人一首」と呼ばれるのは、藤原定家が京都嵯峨の小倉山の別荘で屏風(襖)に書き写したことから、このように呼ばれていますが、小倉百人一首はすべて「古今集」や「新古今集」などの「勅撰和歌集」から集められています。「勅撰和歌集」とは、時の天皇の命で編纂された和歌集で、全部で21の和歌集がありますが、「小倉百人一首」は、次の10の「勅撰和歌集」から、和歌が選ばれています。

ところで、「百人一首」と言えば、一般に「小倉百人一首」のことを指していますが、定家が編纂した百人一首の後、多くの百人一首が生まれています。

古くは1483年、時の将軍・足利義尚が選んだ「新百人一首」のほか、1800年頃に作られたと言われる「後撰百人一首」などがあります。このほか、武士だけの和歌を選んだ「武家百人一首」、女性だけの「女百人一首」などもありますし、江戸時代には「蔵笥(ぞうし)百首という、半ば教育的なものもつくられました。

概要

小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだといわれる私撰和歌集である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙といわれる。

蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。

定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。

小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半という。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。 後に、定家が小倉山で編纂したといわれる由来から「小倉百人一首」という通称が定着した。

室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。

小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた私撰集である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、
1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること
2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく別の歌であること
この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。

定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれたといわれる。 室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。 戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因といわれる。 小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。

歴史

百人一首の歴史は「かるた」から始まると言われていますが、カルタの始まりは平安時代に遊ばれていた「貝合わせ」というものだと言われています。 「貝合わせ」とは、二枚貝をふたつに分けて、その片方を探すといった単純な遊びですが、やがて宮廷の人々のあいだでは、貝に歌や絵を書いて遊ぶようになります。

これは「歌合せ」といって、いろいろな貝にそえて和歌を詠み、その和歌を競い合うというものでした。 やがて、それと似た絵合わせをする「貝おおい」という遊びが進歩して、「歌貝」というものに発展します。

「歌貝」では、貝の形をした札が上の句、下の句ともに100枚あって、現在の「かるた取り」と同じように、下の句の札を並べて、上の句を詠んで下の句を取るというものです。 この遊び方は、百人一首の歴史からすると、かなり現在の遊び方に近いものではないでしょうか。

歴史が下って戦国時代の頃になると、百人一首が「かるた」として遊び始められますが、はじめは宮中とか諸大名の大奥などで行われ、それが年間行事となったようです。

この時代の「かるた」は、まだまだ庶民の間では馴染みの薄いものでしたが、江戸時代に入り、木版画の技術の発展や、南蛮渡来の「かるた」を取り入れることによって、庶民の中に徐々に広まっていきます。

やがて、「民用小倉百人一首」などが出版され、元禄時代の頃から一般庶民の間にも広がり、「和歌かるた」と言えば「小倉百人一首」のことを指すようになり、庶民にも馴染みあるものになりました。